フリーライティング、でないライティング
フリーライティングとはなんぞや、という議論があるわけですが、ダイレクトに対象に迫る代わりにその周辺を探索してみてもいいでしょう。つまり、フリーライティングではないライティングには何があるのかを考えるわけです。
たとえば、パラグラフ・ライティングというものがあります。パラグラフとは段落のことで、日本語の文章だと「だいたいこれくらいかな〜」という分量単位で段落が作られることが多いのですが、そういうふんわりしたアプローチではなく、一つのメッセージについて一つの段落/パラグラフを当てる、というやり方がパラグラフ・ライティングの胆です。
さらに、一つのパラグラフにはその中身を代表するキーセンセンスという文を置くのもフォーマットで、だいたいそのキーセンテンスは先頭に置かれるようになっています。だから、パラグラフ・ライティングで書かれた文章は、全部の文を追いかけなくてもよく、パラグラフ1つにつき、その先頭の文だけをチェックすればだいたい中身がわかるという、時間的エコな読み方ができる優れた文章スタイル/フォーマットなわけです。
で、先ほども述べたように日本語の文章、特にエッセイなどにおいてはこうしたパラグラフ・ライティングはほとんど意識されていません。意識されないのだから成立しているわけもなく、だいたいはパラグラフ・ライティング的には破綻してします。
だったら、そのように書かれた文章はフリーライティングなのかと言えば、それはノーなわけです。たしかに「パラグラフをこう作る」というようなルールはありません。その意味では、「フリー」ではあります。でも、そういう「フリー」さがあればフリーライティングと呼べるかと言えば──自分で新しい用語を確立しない限りは──、それはやっぱりノーなわけです。
ただし、そういう日本エッセイ的なゆるい文章の書き方に、具体的な名前が与えられているのかと言えば寡聞にして私は知りません。というか、方法的規定がない方法という意味で、名前が与えにくい存在であることは間違いないでしょう。
ですからたとえば、単につらつらと書いているだけという意味で「フローライティング」と呼んでみる手はあるでしょう。あるいは、構造的な意図がまったくないという意味で「フラットライティング」という言い方もありかもしれません。
なんであれば、そういう書き方と「フリーライティング」は違います。フリーライティングの精神である「自由に書く」とは、フォーマリズム的規範性(ようするに文章を書くときの決めごと)から抜け出ることだけでなく、文章を書くときに無意識で働いている自己検閲からも自由になることです。
このラディカルな意味が欠落してしまえば、フリーライティングは実質的に損なわれてしまうといっても過言ではありません。このことは、文章を書くことについて自覚的に考えたことがある人ほど、切実さを帯びてくるのだと思います。