何の気なしのリストインとインボックス
大きな心配事が一段落したので、さてどうしようかと7月からのスケジュールを入力していたら、そういえば先月から市の健康診断の予約が始まっていたことを思いだしました。とにかく、ここ数ヶ月は自分のことなどどうでもよかったのでスルーしていたのですが、ぼちぼち考えはじめてもいい頃でしょう。
そこで、自分のシステムの「気になっていること」リストに入れておこうと思いました。瞬間的な判断です。まるっきりシステム1が駆動していた感覚があります。
でも、今の私は「一段落の解放感」というか精神的なメモリの余裕があります。なので「ん、まてよ?」とちょっと思いました。このままこれを直接リストに入れてもいいのだろうか、と。
たしかにそれは「気になっていること」ではあります。直感的な判断では間違いありません。でも、「市の健康診断」とそのリストに書き込んで、それを「処理」したことにしてしまうのは、大きなミステイクではないかと思ったのです。
この「気になっていること」リストは、直近でコミットしているプロジェクト以外の「気になっている」ことが書き込まれるリストです。しかるべきタイミングで確認され、必要であれば、プロジェクトなり具体的なタスクなりが起こされます。
じゃあ、先ほどの「市の健康診断」という項目はどう扱われるでしょうか。おそらくその項目を取り出した後、「自分は健康診断を受けるべきなのか、受けるとしたら個別なのか集団なのか。タイミングはいつなのか」を考えることになるでしょう。
その状況をイメージした途端に、「いやいや、それがインボックスの中で行われる最初の処理ではないか」と思い至ったのです。つまり「これは何か?」という自問です。
脳のシステム1の働きは直感的であり、理知的な判断を通さずに類型(パターン)で情報を処理していきます。ヒューリスティックと呼ばれるものです。そのヒューリスティックはだいたいの場面でうまく機能するので心強いのですが、すべての場面で等しく機能してくれるわけでもなりません。間違いがありますし、その間違いが致命的なことも起こります。
「いったんinboxに入れて、これを何かと問う」というシステムは、一見すると面倒ですし、遠回りな処理に思えます。でも、その「面倒さ」が良いわけです。あるいは処理の「遅さ」に価値があります。
『啓蒙思想2.0』でも構いませんし『知ってるつもり』でも構いません。この手の本をひもとけば、脳が楽に情報処理をして構わない状況では基本的にシステム1が出張ってきて、システム2は沈黙していることがわかります。システム2は「わざわざ必要になる状況」でしか出てきてくれないのです。
情報を速攻で処理していかなければならない状態ではシステム1が(だけが)駆動するでしょう。しかし、inboxシステムはあえて迂遠なルートを設計することで、出不精なシステム2にお出まし願えるような形になっています。
今回感じたのは、この強力さです。不便であることの(あるいは遅く、手間がかかることの)価値。
ある程度リストが整備されて、使い勝手がわかってくると、私たちは直感的に情報を処理するようになり、「適切」(だとシステム1が判断する)なリストに情報を送り込むようになってきます。忙しい毎日を送っていればいるほど、その傾向は高まるでしょう。
先ほども述べたように、そうした判断の大半は別に間違ってはいません。でも、すべてが正しいとまでは言えないのです。
今回スポットライトを当てたいのは「市の健康診断」という項目をどう扱えばよかったのか」というテクニカルな問題ではありません(それは今日のインボックスに入れておきました)。またGTDの技法について意見を申したいわけでもありません。そうではなく、「手間をかけることの価値」を確認することであり、行き過ぎた省力化への警句について考えたいのです。
その観点から改めて「インボックス」の意義について検討してみることもできそうな気がします。物事の処理速度をあえて「落とす」=理性を発揮させる装置としてのインボックスとして。