アウトラインの指向性と意志
ごりゅごさんの上の投稿に「指向性のあるアウトラインを作る」という表現が出てきました。なるほど、という感じです。私の言葉で言えば「意志」があるアウトライン、ということでしょう。
日常は雑多に過ぎていき、それをそのままメモった”アウトライン”もまた雑多になります。これは上の意味では「意志」がありません。もちろん、そのことをメモする、という意志は働いているのですが、ここで言及したい「意志」はそういった意志ではないわけです。
では、その「意志」とは何か。
ここで考えたいのが「指向性のないアウトライン」です。以前、トピックノートについてTak.さんと話していたのが、そこにあるのはページの(ページリンクの)集合であって、その順番そのものに大きな意味はない、というもの。一方で目次(案)は第一章の第一節がそこにあり、第二節がそこにあるという意味がきちんとあるものです。書き手が、そのように意図し、何かしらの意味を醸成するために配置したものです。つまり、そこには意志があります。
この「意志」は先ほど述べた意志と同じでしょう。つまり「指向性のないアウトライン」から「指向性のあるアウトライン」への変化、展開はそこに意志を込める、ということです。
どんな意志か?
「伝えようとする」という意志です。
ここで注意したいのは、この意志は「わかって欲しい」という欲望とは異なっている、ということです。「伝えようとする」と「わかって欲しい」は重なる場合があるものの、厳密には異なる姿勢です。
私たちは伝えようとするから、言葉を選び、文法に従います。適切なたとえを用い、さまざまな角度からパラフレーズしようとすることも、「伝えようとする」意志があるからです。その相手は、もしかしたら「もう一人の自分」かもしれませんが、それでもそこには「伝えようとする」意志があるのです。
そうした意志があるからこそ、あるいは目的が設定できるからこそ、私たちは文章を紡ぐことができます。何が必要で、何が不要なのかの判断が下せるのです。
情報というものの形がさまざまにありうるとして、一つの極は非常に雑多でバラバラな状態です。ここには「伝えようとする」意志は微塵も含まれていません。そうしたバラバラなものを一つの集合として集め、一つの並びを作り、それを適切な順番に構成していくこと。そうした意志をともった構造化の最終地点が「目次」です。
「指向性のあるアウトライン」と言うとき、そこにはベクトル的な矢印がイメージされますが、その矢印が「伝えようとする」なはずです。少なくとも、文章を書くためにこうした行為を行っているならそうなるでしょう。
別の言い方をすれば、その「指向性」は何を目指しているのかを問うてみることは情報整理において有用かもしれません。