キーボードへのあこがれ
ぼくはキーボードをタイプすること自体が好きであり、あこがれてもいる。
キーボードにあこがれるようになったきっかけは、ふたつ。どちらも、職場そばにあるスターバックスで、偶然見かけた風景である。
僥倖といってもいい。
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ひとつめは、iPhoneがまだiPhone 6のころ。
ぼくは、論文の原稿づくりが思うように進まず、研究室から場所を変えて、スターバックスにきた。
でもやはり、作業はゆっくりとも進まず、MacBook Airのキーボードを、塞いだような気もちに抗いながらタイプしていた。
そんな時間が30分ほど過ぎたころ、左うしろのテーブルに、やせぎすで服装には頓着していないようにみえる大学2年生くらいの若者が、いきおいよくすわりながら、雑多なもので一杯の大きなザックを、やや乱暴に床の上においた。
彼が、そのザックから笑みをうかべながらとりだしたのは、やや小さいサイズの折りたたみキーボードだった。
魅力的な質感の黒いプラスティックのキーボード中央向こう側には、たぶん彼があとづけしたiPhone用アタッチメントがついている。
そのアタッチメントに「カシャッ」という音が聞こえるようなスピードでiPhoneを差し込んだ直後から、彼はすばらしい勢いでタイプしはじめた。
プラスティックの薄いキーボードから聴こえてくる固い打鍵音の連続が、心地よかった。
人生にこれ以上楽しいことはない、という空気が彼の身体全体から、キーボードとiPhoneを中心に開放される。
ぼくはその映像と音を、今もはっきりと思い浮かべることができる。
ぼくの人生で出会った、最高に幸せそうな人トップ20には確実に入るほどの幸福の風景。
この風景との出会いのあと、彼からもらった幸福感のおかげで、ぼくの原稿づくりが大きく進んだことも、伝えておきたい。
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ふたつめの風景は、去年の年末までつかったMacBook Proが元気だったけれど、キーボードの調子が今ひとつだったころ。
ぼくはそれまで、そのMacBook Proのために別のキーボードを買うことを考えたことがなかった。
だから、「a」や「g」のキーを押すたびに、いちどしか押していないはずの「a」や「g」が2つ以上出力されることが繰り返されても、その余分な文字を消せばいいとだけしか、考えなかった。
ぼくは、自分がつかっているそのMacBook Proが好きだった。
あのときも、論文の原稿をつくる作業がうまく進まないときだったのは、偶然ではないだろう。気分転換という理由をつけて珈琲を飲み、頭の中で文章の並びかえをくりかえしていた。
大きなテーブルのぼくの左側の席に、やはりやせぎすで、服装に頓着しないように見える若者が、でもこんどの彼はほぼ音も立てずに、そして動きも最小限にしずかにすわった。
彼はまず、スペースグレーの薄いMacBookをテーブルの上にそっと置いてていねいに開き、すぐ体をねじって椅子の背もたれにかけたザックから取りだした黒く分厚いキーボードを、MacBookの上へやや無造作においた。
キーボードのキーには文字がない、色は灰色にもみえるつや消しの黒。
しばらく本をよんだあと、彼はキーボードの体から遠い側面にあるスイッチを指でおしたあと、やはりすばらしい速度でかきはじめた。
その柔らかい打鍵音は、おそらくぼく以外の、周囲にいる人たちすべての心にも響いたのではないだろうか。印象的な柔らかい音だった。
キーボードの名前がすぐに分かったぼくは、柔らかい音を聴きながら、そのキーボードを買うことをきめ、彼が文章をかいているあいだにオンラインで注文した。
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文章をかくのは愉しいけれど、楽なときばかりではないのはあたり前である。
なぜ自分は文章などかいているのか。あんな約束をなぜしてしまったのか。
思うようにかけない、あの時間とどうつきあうのかが鍵になることは、たぶんいうまでもないだろう。
そういう時間に、姿をみるだけで少しうれしくなるキーボードが目の前にあり、思わずタイプしてしまう、打鍵音を聴きたくなるという心もちは、この世界の人が分かっている以上に大切な、この世界からの贈りものではないかと、ぼくはまじめに考えている。

