「何者」とは何者か
さて、ちょっと考えてみましょう。まずは、以下の記事から。
「“結局、何者にもなれない”のに学ぶ意味はあるのか」への超納得の回答 | 独学大全 | ダイヤモンド・オンライン
おそらく私は何者にもなれません。就活が近づきつつありますが、学歴も高くなく、大学では知識のインプットばかり重視して特別な経験は何もしてこなかったので、社会を変えるような仕事にも就けないでしょう。読書猿さんのように学んだことを多くの人に還元することもできないでしょう。それでも、そんな凡人の、名もなきモブとして人生を終えていく私でも、学びを続ける意味って何でしょうか。
この引用部分からすると「何者にもなれない人間」=凡人・名もなきモブ、という感じでしょうか。逆転すれば、何者とは、非凡人・名を持つキャラクターとなります。
つまり「何者」とは、何かしら特別な存在感を持つ人ということでしょう。
で、辞書を引きます。
1 はっきりしない相手をさす語。だれ。何人 (なにびと) 。「―かに聞かれていたらしい」
2 あらゆる人。いかなる人。何人 (なにびと) 。「―も太刀打ちできない」
「1」は誰かはわからないけれども、誰か人であることが含意されています。「2」は、一般的な人の集合に含まれる要素が含意されています。
あれ? この二つの意味からは「特別な人」感はまったく感じられません。というか、その逆のような雰囲気を感じます。
おそらく「何者にもなれない」という言葉は、一般的な人の集合に含まれることすらできない、という卑下なのでしょう。特別なものになれないのではなく、普通にすら至れない、という含意だったのだと思います。
しかし、今の時代では、「何者」は何かしら特別な人という意味で使われているのではないでしょうか。少なくとも私は、辞書を引くまではそういう意味だと思っていました。
ここで文化論的な視点を立ち上げることができます。キーワードは「モブ」です。
ストーリーテリングにおいて、モブは「背景」でしかありません。主人公たちキャラクターの背景として機能する人たちです。非キャラクター=モブなわけです。
この構図において、モブはキャラクターよりも一段劣った扱いを受けます。
一方で、私たちは市民社会の中で皆均一にモブでしかありません。大衆です。キャラクターリアリズムにとって、そうした一市民であることが劣っているかのように感じられるわけです。スポットライトを浴びない人間は無価値=背景である、と捉えられるわけです。
でも、現実社会はそうしたスポットライトを浴びないたくさんの人たちの(広義の)働きで成り立っていることは間違いありません。それはぜんぜん「無価値」ではないのです。それを無価値と断じることは、私たちが依って立つ社会そのものを否定することにつながります。それはちょっと、勇み足というものでしょう。
一方で、別の二つの観点もあります。一つは、メディアが「(特別な人という意味での)何者かになれ」と現代を生きる人をせっついてくること。そのせっつきは、結局消費を促すためなのですが、しかし「その人のために必要」というアドバイスのマントを羽織って登場するのが厄介なところです。
もう一つの観点は、まさしく「普通の人」という意味での「何者」にすら慣れていない、と感じている人がたしかに存在するだろう、という点です。おもに生活環境の面からそういう感覚が生まれているのだとしたら、それは政治的な問題としてきちんと俎上にあげる必要があるでしょう。
ともあれ、このトンネルChannelは、「何か特別な人でなくても発言していいし、何か特別な人を目指さなくていい」という気持ちで取り組んでいます。とすれば、フラットな意味合いで「何者メディア」と言えるかもしれません。